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【納得】着付けの右前を忘れないコツ&着物の右前の理由と歴史を解明

久しぶりに着物を着ようとすると、合わせが右前だったか左前だったか思い出せないことはありませんか?そんなあなたに忘れても簡単に思い出せるコツをお教えしましょう。誰もが簡単に覚えられて忘れることのない方法です。でも、どうして着物は右前になったのでしょうか?

着物の合わせは右前?左前?

着物を着るとき、「どっちが上になるんだっけ?」と迷うことはありませんか?
私も長い期間着ていなと、右前だったか左前だったか一瞬迷うことがあります。
絵羽なら左前だと直ぐに分かりますが、無地や小紋は柄で判断することができません。
歳のせいもありますが(ノД`)・゜、皆さんはそんな時、どうしますか?

下前=右前

なぜ「右前」と言うのかというと、自分から襟の合わせを見た時、右襟が肌に近い手前になります。
「前」という言葉に翻弄されそうですが、上前、下前からきている言葉で、下前⇒右前、上前⇒左前になります。
下側になっている前身頃だから下前、上になるから上前と覚えておくのもいいですね。
要は間違わず着れればいいんです。

着物の柄で分かる右前

黒留袖

冒頭に出てきた「絵羽」とは絵羽模様の略です。
ご覧のように、着物に向かって左から右にかけて一枚の絵のように柄が描かれていることを言います。
これなら右前になることは一目瞭然ですよね。

訪問着

先ほどは黒留袖でしたが、こちらは訪問着です。
同じように向かって左から右にかけて流れるように一枚の絵になっていて右前だと分かります。
ここで、黒留袖にはなかった袖の柄が出てきます。
この左袖の柄によっても右前になることが分かりますよ。

呉服屋さんの店頭に、こんな風に着物を着つけられたトルソー(着物用のマネキン)を見たことはないですか?
正面から見ると、袖の柄付けの華やかさが逆になっています。
これは右利きを前提にした柄付けで、相手に美しく柄が見えるように描かれているんです。
自分の目線ではなく相手の目線で考えるところは、さすがおもてなしの国、日本です。

袖の柄を美しく見せるための工夫

このように、懐に右手を添えると、着物の袖の柄は美しい外側が正面に向くようになります。
右は頻繁に動かすのでふりの前後に柄が付いていることが多いですが、左は上品に整えていることが多いので外側を華やかに彩っています。
このことからも袖の柄を美しく見せるためには右前(下前)にならなければいけないことが分かります。

そう言えば、お茶の世界も同じですよね。
亭主からお茶を出されたとき、茶碗の柄はこちら側に向いています。
お茶を出したお客に器の柄を楽しんでほしいからです。
そして客も、柄を堪能した後、茶碗を回して亭主や他の客に柄が見えるようにします。
すべては相手側の目線のための美しいありかたなんで、日本人の相手に対する気遣いがうかがえます。

着物の右前思い出し術!

では、左右が分からない柄や無地の着物はどうしましょう。
そんなとき、役に立つのが時計です。
体に時計回りに着物を巻く、と覚えておくんです。
つまり右回り。だから右前。
これならどんな着物でも間違えないでしょ(^_-)-☆

死人だけなぜ左前にするの?

明るい死人で済みません。
適当な画像が見つかりませんでした。
しっかし、これだけ明るいといくら着物を左前に来ていても死人とは思われないかも・・・・・"(-""-)"
明るすぎて向こうで右前に着せなおされて返されるかも(´・ω・`)

脱線してしまいましたが、
あの世に行ったとき、生人と死人の区別を一目で分かってもらえるようにとの装いで、お釈迦様が入滅するとき、着物を左前にして着ていたからだとされます。
それに習ってか、人が亡くなると通常の逆に行なう「逆さごと」というものを見たことはありませんか?
水にお湯を注いでぬるくする「逆さ水」や、死者の布団を逆さにする「逆さ布団」といった作法です。
お釈迦様の存在は仏教国日本では絶大です。
すべてはお釈迦様にあやかってのことだと思われます。

着物はどうして右前なの?

時代劇でお馴染みの武士の姿ですが、これより遥か昔から着物の合わせは右前と決められていました。
それは鞘から刀を抜く際、左前に着ると刀の鍔(ツバ)が合わせに引っかかってしまうためだという説があります。
また、規律を重んじる日本人は左利きであっても右利きに直さなければいけませんでした。

でも、どうして左利きを直してまで右利きにしなくてはならなかったか。
それは、武士は集団で戦う為に密集陣形や隊列が乱れる恐れがある為です。
確かに一斉に突進するとき、左右バラバラに刀を抜いていたらお隣さんを傷つけてしまいますね。
それに命のやり取りの合戦のとき、着物に刀の鍔を引っ掛けてなどいられません。

日本の着物の歴史

縄文時代(紀元前14000頃~紀元前300年頃)

縄文時代後期頃

遺跡の出土品を元に、縄文人の着物を復元した物です。
女の子の頭には赤い漆塗りの櫛、耳にはピアス、首にはペンダント、手首にはブレスレットという、現代から見てもとてもおしゃれな服装ですね。
古代の人も現代人に負けず劣らずおしゃれだたことがうかがえます。

人が着物を着るようになったのは、なんと7万年前ではないかと言われています。
写真は、長野県、栃原岩陰遺跡から発見された1万年前の鹿角製のぬい針で、現在の針とほぼ同じ原型です。

弥生時代(~紀元前250年頃)

推定復元

この時代になると定住して田んぼを耕し村ができ、その過程の中で上下関係ができ、「身分」が出来ました。
特に身分の高い人の着物が左の赤い染めの着物で、下級の人は右側の簡素な着物だったようです。
かぶるタイプからはおるタイプに変わり、真ん中で止めるだけの簡単な物で、着物と言うより現代のファッションに近いように見えます。

☆豆知識☆
紀元前1世紀頃、日本には小さな国が約100個ありましたが、2世紀後半になると国同士の争いが激しくなります。
そしてここで登場するのが、歴史でも学んだ、邪馬台国の卑弥呼です。
卑弥呼という女性を連合国の王様にすることで争いに終止符が打たれます。
邪馬台国は連合国家だったんです。

古墳時代(~600年代末頃)

上流階級

上着は中国風、ロングスカートは西洋といった感じで着物の片鱗さえうかがうことができません。
上着は前合わせになっていますが、着物のような襟もなく、合わせは右前ではなく左前のようです。

飛鳥時代(592年 ~ 710年)

推古朝女官朝服

701年の大宝律令の衣服令(えぶくりょう)で、王臣の服装は礼服(らいぶく)・朝服(ちようぶく)・制服(せいぶく)に大きく3分類され、上は天皇から下は無冠の庶民まで服装の形や色の決まりごとが14条にも細かく定められました。
何だかチベットの身族衣裳のようにも見え、着物とはまったくかけ離れた形です。

!!着物の合わせ左前!!
着物の合わせが左前になったのは、隋の時代中国の文化の影響で養老律令により「初令天下百姓右襟」という一文が起源とされています。
どうやら中国(隋の時代)の思想で、「左は右より上位である」とされ、高貴な方にだけ左前が許されていたことに端を発していたようです。

天武・持統朝女官朝服(飛鳥時代末期の古墳の壁画)

高松塚古墳の壁画に描かれた婦人像です。
この時代の女性の服装をイメージさせてくれます。
末広がりの長い袖、以外と可愛いスカート、襟元を見ると右前ではなく確かに左前になっていますね。

奈良時代(710年 ~ 794年)

命婦礼服(みょうぶらいふく)

「命婦(みょうぶ)」とは貴婦人や位の高い人のことを差します。
昔話の天女のような着物で袖口が大きく広がり、唐の時代の中国からの影響が強く見られます。
腰に巻いている裳だけが唯一、十二単を思わせます。
襟元が右前に変わっています。

!!着物の合わせ右前!!
この頃、遣唐使などにより、服装にも中国からの影響がみられるようになります。
718年、襟の合わせが左前から現在の右前と定められました。
飛鳥時代同様、今度は唐の国の習わしに従じたのではないでしょうか。
それと、動きやすさからも右前が定着していきました。

平安時代(794年 ~ 1185年)

平安初期女官朝服

【和様の創製】
これから一気に和様に変化していきます。
「和様(わよう)」とは、日本風や、日本様式の事物を意味しますが、着物の右前はそのままだったようです。

平安時代中期

平安時代中期の女性の衣類の種類の一つで、高貴な女性の普段着です。
平安時代と言うと、お姫様は十二単を着ている印象がありますが、あんな堅苦しい着物は着ていませんでした。

今でも目上の人の前に出るときは、きちんとした身なりをしますよね。
それと同じで、平安時代も位の高いお姫様はラフな服装で過ごし、身分の低い女房たちの方が華やかな礼装に近い服装をしていたんです。
また、来客や催し事がある度にお迎えする女房たちは十二単を着ていました。
家どころか部屋からほとんど出ることのなかったお姫様は、女房より十二単を着る機会がはるかに少なかったんです。

十二単

実は、平安時代には十二単なる言葉は存在していませんでした。
当時は女房装束といったような呼ばれ方をしており、正式には「五衣唐衣裳」と言います。
この時代の着物が一番華やかで雅で、大変だったと思います。

☆豆知識☆
十二単と言っても12枚も着物を着ているわけではありません。
袴も入れた着物一式と桧扇、頭に乗せる宝冠まで入れて正式な十二単になるんです。
この十二単、実は正確に12枚着ているわけではありませんでした。
襟元のグラデーションのおしゃれであって、枚数はまちまちだったようです。
ちなみに、最高16枚もの重ね合わせたという記録があります。
重さにしてなんと約60キロ!!どんな女性が着たのでしょうね。

☆豆知識part2☆
【裳抜けの空(もぬけのから)】
袿を何枚も重ねて着る十二単はたった1本の「裳」と言う腰紐で止められていました。
その重さは平均で20キロ近くにもなります。
裳をちょっと緩めれば形を崩さずスルリと抜け出せたんです。
忍んできた殿方から身を守るため、身一つで逃げたんですね。
着物の形は人型でちゃんと有るのに肝心の中身が無い、そんなところからつけられた諺です。
そしてこの「裳」が徐々に短くなり、私たちのよく知る袴へと姿を変えていきます。

庶民の女性

一般的な庶民の女性の着物姿です。
貧富の差が激しかったこの時代、庶民の着物は簡素なものでした。
家柄で全てが決まるこの時代、バカでもアホでも家柄さえよければ出世出来た時代だったんです。

鎌倉時代(1185年 ~ 1333年)

武家の女性

位の高い武家では、公家の女房の衣裳より少し軽い服装をしていました。
公家のために戦うのが仕事だった武家では、動きやすい服装が好まれたようです。
また、この頃から小袖が登場してきます。
前も後ろも筒抜けだった袖から、私たちが知る着物の袖に形が変わっていきます。
この小袖が着物の原型となります。

さらに進むと優雅な服装は影をひそめ、もっと動きやすい現実的なものが好まれるようになってきます。
公家に仕えていた武家や庶民は、日常生活では小袖を身につけるようになり、時代とともにそれが主流になったと考えられます。

室町時代(1336年 ~ 1603年)

武家上流婦人

大河ドラマなどでお馴染みの、織田信長や豊臣秀吉などの豪華キャストがいた時代の着物です。
小袖の上にしっとり柔らかい風合いの打掛の着物姿は美しいですね。

この時代、京は戦乱が続いて荒廃し、公家も各地に散らばるなどして、服装に凝るどころの時代ではありませんでした。
天皇の力も衰退し、江戸時代中期に「装束御再興」運動が起きるまでは衣服令もほぼ無いものとなりました。

江戸時代(1603年 ~ 1868年)

江戸時代上流武家

大河ドラマ「天璋院篤姫」のシーンから、私の2番目に好きな着物のカットです(≧▽≦)
畳に伸びる引き振袖の流れる裾、襟から裾にかけてのラインの美しさと塵除けの美しさと振袖とのバランス、凛とした上品さと気高さ。
庶民の私たちには着られない格の高い塵除けなので真似て楽しむことはできませんが、見ていて惚れ惚れしてしまいます(´▽`*)

右前の結論

襟の合わせには国交が深く関わっていたことが分かりました。
江戸時代に、刀は左腰に差して左手で鞘をつかみ右手で抜く、など刀に関して細かく定められたが、着物が右前になった時点で必然的に左腰に差していたと思われます。
どの時代の資料を見ても、国を問わず合わせとは逆の方に刀を差していました。
結論!
刀の扱いやすさ、動きやすさから右前になるのが必然だった、です。
長文をお付き合いくださりありがとうございました。

追伸

着物の美しさは、その色柄や帯はもちろん、シャープなV字の襟もその一つです。
この3つがあって初めて着物は最高の姿になると思っています。
間違っても右前と左前を待ち間違わないようにしましょう。

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