天海祐希が吉川晃司と共演NGな理由とは?天海祐希と吉川晃司の関係
kiiroitori
2016/08/12
プロフィール
天海祐希
本名 中野祐里
1967年8月8日生まれ
東京都出身
研音出身
宝塚歌劇団の元月組男役トップスター
演劇部に入った中学2年生の時に、担任に勧められて、宝塚歌劇に進む事を決心する。受験準備のため、高校生で「大滝愛子バレエ・アート」に通いました。台東区立西町小学校、そして、地元の中学を卒業し、菊華高等学校(現・杉並学院高等学校)を2年生で修了しました。その後1985年、宝塚音楽学校に首席で入学しましたが、宝塚歌劇団入団時は、26番でした。
1987年、73期生・宝塚歌劇団に入団。初舞台は、雪組公演『宝塚をどり讃歌/サマルカンドの赤いばら』(主演:平みち)でした。
新人公演の「サマンカルド~」は、バルフ王子(本役:鮎ゆうき、当時雪組新進の男役だった)役に抜擢される。初舞台での新人公演配役としては、異例の目立つポジションです。その後、月組に配属され、同じ年には、バウホール公演『青春の旋風〜リトル・ヒーロー三四郎』で、早くも準主役の一人、ブーン役に決まります。そして、年末公演の『ミー・アンド・マイガール』で、研究一年生(入団一年目)において、新人公演での初主演を勝ち取る。
1989年、歌劇団ニューヨーク公演(メイン・大浦みずき、他に紫苑ゆうらが出演)メンバーに選出。1991年には4期上の久世星佳・若央りさや1期上の真織由季・大海ひろらを飛び越し月組2番手男役スターとなる。
背も高く、見栄えがするとは言え、新人の時から、準主役や主演など、大活躍だったんですね。
初舞台から7年(正式には6年半)で、月組トップスターに就任する。その後、天海祐希の後任になる月組男役トップスターは、3代続けて彼女の上級生です。そして、もう一つ、天海祐希の他に、入団後10年以内で、男役トップスターになった人は、一人としていません。
1993年、この年に行われた『ミリオン・ドリームズ』『風と共に去りぬ』など、新人公演主演(在団7年目まで)は、姿月あさと(天海祐希のが同期生)が、演じることになりました。同期は、新人公演なのです。この事から、出世の速さがうかがえます。
1995年12月、28歳の時に『ミー・アンド・マイガール』で、相手役の麻乃佳世と同時退団する。退団の時には、人気があったため、マスコミ各社の高い関心を集め、ワイドショーでは、特集が組まれました。そして、以降は、テレビドラマや映画にも出演しています。
退団後に、いくつかの所から、勧誘がありましたが、天海さんは、親友が在籍していた、「フライングボックス」に所属しました。そして、『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』で、共演した唐沢寿明に、誘われて、2003年1月、事務所「研音」へ移籍した。2004年以降、単独で主演を務めるなど、活躍しています。
吉川晃司
1965年8月18日生まれ
広島県出身
株式会社アクセルミュージックエンターテイメント代表取締役社長
「音楽の世界でビッグスターになりたい」と、思った吉川晃司は、「スカウトされたい」と願いました。しかし、田舎では、スカウトされるチャンスはありません、。それで、吉川は、渡辺プロダクション宛てに、「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと、一生悔いを残す」と書いた手紙を、送りつけました。
そんなことが、きっかけになる、夢のような、話があるのでしょうか?
その後、渡辺プロの関係者が、本当に会いに来て、数度のオーディション後、ナベプロに入る。当時のマネージャーの部屋に居候して、ダンスのレッスン代わりに、新宿、渋谷、六本木のディスコで毎日踊ったのです。最先端の音楽とファッション。そして、踊りは都会的になりました。けれど、いつまでもデビューさせてくれない事に、吉川は、業を煮やし、社長室に会いに行きました。若い時から、一本気のところがあったんですね。そんな事が、渡辺晋社長に気に入られ、デビューへの運びとなりました。
渡辺プロは、吉川晃司を「10年に1度の逸材」とみなし、ナベプロの起死回生の原動力とするつもりでした。ですから、社長自ら、デビューの為のプロジェクトチームを編成しました。。映画と歌の同時デビューも、ナベプロの肝いりで実現した。吉川晃司は、渡辺晋の手掛けた、最後のタレントとです。後に、明らかになりましたが、大澤誉志幸が「渡辺プロでは、総力を挙げて吉川晃司を売り出すから、お前にかける金はない」と、スタッフから言われたという逸話も残っています。
1984年2月1日シングル「モニカ」でデビュー。この曲は、主演映画『すかんぴんウォーク』の主題歌でもあった。以降「サヨナラは八月のララバイ」、「LA VIE EN ROSE」、「ユー・ガッタ・チャンス」(オリコン3週連続1位)、「にくまれそうなNEWフェイス」(オリコン1位)、「RAIN-DANCEがきこえる」(オリコン4位)、「キャンドルの瞳」(オリコン2位)と立て続けにヒットシングルをリリースし、1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占。翌1985年暮れにはNHK紅白歌合戦に出場した。
日本武道館公演を行いました。デビュー1年目では、史上2人目です!
1988年に、一時活動停止後後、22歳の時、渡辺プロから、子会社独立と言う形で、新しい道を歩き出しました。マネージャーの河村嚴生が、社長のセブンスエンタープライズ所属になったのです。レコード会社は、東芝EMIに移籍する。
元BOØWYの布袋寅泰とユニット「COMPLEX」
ユニット「COMPLEX」を結成し、翌1989年4月にシングル「BE MY BABY」(トヨタ・セラのCM曲)をリリース。COMPLEXは『BE MY BABY』を含め2枚のシングルと、2枚のアルバムをリリースしました。(いずれも、オリコンチャート1位を記録)その後、1990年11月8日の東京ドームでの、ライブをもって活動を停止しています。
素敵な二人のユニットでしたね。また見たいです。
2004年、天海祐希と吉川晃司が、交際していると報じられました。
吉川晃司さんが、天海祐希さん出演の舞台「阿修羅城の瞳」を観劇し、そのお礼にと天海祐希さんが吉川晃司さんのコンサートを観に行ったあたりから、親密になり交際がスタートしたようです。
天海祐希は、吉川晃司との交際を認めました。吉川晃司さんについて、次の様に話しています。
「真っ直ぐで純粋で、まるで侍のようです!」
その後は、順調な交際を続けており、天海祐希と吉川晃司は、結婚するのではないか?と
噂されていました。
お似合いのお二人です!
結婚目前と言われていた、天海祐希と吉川晃司は、交際2年半で破局してしまいました。
吉川晃司さん側にも、破局の原因はあるようです。吉川晃司さんは、天海祐希さんと交際中、「結婚すると自分の中のナイフが、飛び出してしまいそう」などと、結婚願望を否定する発言をしていました。交際中の天海祐希さんからすると、ショックだったに違いありません。
天海祐希と吉川晃司の破局は、吉川晃司のDVが原因だったという話もあります。
しかし、吉川晃司さんは、2011年に一般女性と結婚しました。女性との間には、既に子供がいたことが、明らかになっています。結果論にはなりますが、吉川晃司さんには、結婚する気がなかったわけではなく、「天海祐希さんとは、結婚する気がなかった」とも解釈できますよね。
破局してしまった理由について、天海祐希さんの性格が、本来、結婚に向いてはなかったのではないか?と言われています。
以前、結婚について聞かれた時に、天海さんは、「結婚しても別々に住むならいい」とか、「家に、男は二人要らない」等、応えているからです。
また、普段からとても人に気を遣う性格のようで、撮影現場のスタッフ一人一人の名前を覚えていたり、スタッフ全員を食事に誘ったりします。(天海祐希さんのおごりで)面倒見も良く、気配り上手な性格でも有名です。普段の天海祐希さんは、サバサバして、男っぽく、キップも良いアネゴ肌ですが、好きになった人には、いろいろと細やかに神経を使う、家庭的なところもあるようです。そういった気の付く性格が、かえって災いするということなのでしょうか。
しかし、天海祐希と吉川晃司は、破局の理由について、発言した事はないため、
本当の破局理由は不明です。
ミュージシャンとして活動している吉川晃司
女優として、活動している天海祐希さん。
天海祐希と吉川晃司は、2015年10月から放送されるドラマに、別々に出演しました。
破局してしまったこともあり、共演することはないでしょう。しかし、お互いの活躍に、注目したいですね。吉川晃司さんは、俳優としても、もっと活躍して欲しいですね。自然な白髪も、綺麗で素敵です。
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