dmegumi
2015/10/09
塙保己一は、はなわほきいち と読みます。
延享3年(1746年)、今の埼玉県に生まれた江戸時代の国学者です。
目が見えませんでしたが、抜群の記憶力で日本の古典を意欲的に学び、研究していきました。
ヘレンケラーも塙保己一を目標としていました。
来日したときに、保己一の座像や保己一の机に触れ、「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」と語りました。
知る人ぞ知る、塙保己一。
どんな人生を歩んだのでしょうか。
延享3年(1746年)、武州児玉郡保木野村(ぶしゅう こだまぐん ほきのむら)・現在の本庄市児玉町保木野(ほんじょうしこだままち ほきの)の百姓の家に誕生します。
埼玉県本庄市にある生家。国の史跡に指定され、記念館があります。
この塙保己一の子も国学者となりました。
幼児の頃から体は小さく、乳をあまり飲まず病気がちでした。
一方で、草花が好きで、とても物知りでした。
5歳のときに胃腸病にかかります。
そこから、少しずつ視力が落ちていき、7歳の春に失明します。
この頃は家が貧しくて子供を医者に見せられずに亡くなる子や、子供に満足なものを食べさせてあげられなくて栄養失調や病気で亡くなる子、塙保己一のように病気が原因で失明する子も大勢いたようです。
保己一は、手のひらに指で字を書いてもらい、文字を覚えました。また、手でさわったり匂いを嗅いだりして草花を見分けることができたといいます。
人から聞いた話を忘れることはなく、とても物覚えが良かったそうです。
絹商人から、「太平記読み」をしている人の話を聞き、江戸へのあこがれを強くします。
「太平記読み」とは、太平記を朗読し講釈する人。
目が見えない人にとって、この仕事は珍しくない選択肢でした。
15歳(実年齢は13歳とする説もある)で江戸に出た塙保己一は、盲人の職業である按摩・鍼・音曲などの修行を始めます。ですが、どうやら不器用な塙保己一には向かなかったようです。
あげく、借金までしてしまい、どうしようもなくなります。
このころ、雨富検校との出会いがありました。
雨富検校に「3年の間たっても見込みが立たなければ国元へ帰る」という条件付きで弟子入りします。
保己一の学才に気付いた雨富検校は、保己一に様々な学問を学ばせました。
国学・和歌、漢学・神道、法律、医学と様々なジャンルに及びました。
雨富検校が塙保己一にこれだけのことを学ばせたのは、塙保己一の学才に惚れ込んだからなのではないでしょうか。
塙保己一は書を見ることはできないので、人が音読したものを暗記して学問を進めました。
明和6年(1769年)に晩年の賀茂真淵に入門。
『六国史』などを学びました。
その年の10月に真淵が死去したため、教えを受けたのは、わずか半年でした。
塙保己一の学才に惚れ込んだのは、雨富検校だけではなかったようです。
保己一は、多くの人の講義を聞き、門人として教えを受けました。
天明3年(1783年)に検校となります。
検校とは、当時目の見えない人がつける最高の位でした。
寛政5年(1793年)、幕府に願い出て和学講談所を開きます。
ある日の講義中、風が吹いて、ろうそくの火が消えたことがありました。あわてる弟子たちに、「目あきというのは不自由なものじゃ」と冗談を言ったといいます。
すでに学者として有名だった平田篤胤、安藤野雁も保己一の門に入ります。
日本外史を著した頼山陽も教えを乞いました。
文政4年9月12日(1821年10月7日)76歳でなくなります。墓所は東京都新宿区若葉の愛染院にあります。
塙保己一はいくつかの書物を編纂しています。
『群書類従』…昔からあった手紙や書物を編纂。古典や日本史を学ぶ人には必須の書となっている。
『史料』…歴史書。編纂の事業は東京大学史料編纂所に引き継がれ、現在も続けられている。
塙保己一は、学問の神様・菅原道真を尊敬していました。
百姓から関白になった豊臣秀吉も尊敬していたといいます。
学問が好きな百姓の子だった塙保己一は、自分と同じ百姓の出だった豊臣秀吉と学問の神様と呼ばれる菅原道真が好きだったのですね。
塙保己一は、『群書類従』の版木を、20字×20字で作らせました。
これは、今の原稿用紙の元となっています。
塙保己一の生涯をみなさんはどのようにご覧になりましたか?
学問が好きで学問がしたい。
その一心でここまで上り詰めた塙保己一。
塙保己一の生涯から何かを感じていただければと思います。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
この記事に関する記事
最近アクセス数の多い人気の記事
Copyright© 運営事務局