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激動の時代に出会い、獄中結婚した加藤登紀子さんとその夫の物語♪

1943年生まれで日本を代表する歌手で女優さんの加藤登紀子さん。その夫の藤本敏夫さんってどんな人?激動する日本の時代に出会った加藤登紀子さんと夫の藤本敏夫さんの人生をちょっとだけ深くみていきませんか?そこには本当の愛があった・・・そんな物語です。

加藤登紀子さんのプロフィール

プロフィール●加藤登紀子

加藤登紀子(かとう ときこ、1943年12月27日 - )旧満州ハルビン生まれ、京都育ち。実父は南満州鉄道勤務。東京都立駒場高等学校、東京大学文学部西洋史学科卒。

経歴●加藤登紀子

’65年東京大学在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝して、1966年に、「誰も誰も知らない」で歌手デビュー。’66年「赤い風船」でレコード大賞新賞、’69年「ひとり寝の子守唄」、’71年「知床旅情」でレコード大賞歌唱賞を受賞。’88年に日本の女性歌手初のカーネーギーホール公演。全学連のリーダーだった藤本敏夫氏(故人)と獄中結婚。3人の娘をもうける。若いころから輝かしい歌手としての加藤さんであった半面、夫@藤本氏とのまっすぐな愛を育んだ人生もあったのでしょうね。

’71年「知床旅情」でレコード大賞歌唱賞を受賞。’72年 に藤本 敏夫 (ふじもと としお)さんと獄中で結婚している。※藤本さんが学生運動関連で実刑判決を受けて、収監されていた為。'73年には、長女の美亜子さんを出産。

加藤登紀子さん@夫・藤本敏夫のプロフィール

プロフィール●藤本敏夫

加藤登紀子さんの夫@藤本 敏夫 (ふじもと としお1944年1月23日 - 2002年7月31日)は、兵庫県西宮市甲子園生まれの学生運動指導者。有機農法実践家、大地を守る会初代会長、兵庫県立鳴尾高等学校卒業、同志社大学文学部新聞学科中退。

藤本敏夫@学生運動指導者・有機農法実践家であり、千葉県にある「鴨川自然王国」という農事組合法人を設立された方でもあります。1964年の 大学二年の時に、学生運動に参加し、その後も活動を続けていました。1972年に、学生運動関連(公務執行妨害・凶器準備集合罪など)で実刑判決中野刑務所に収監され、獄中結婚します。その後は、選挙に出馬するものの落選、農事組合法人自然生態農場「鴨川自然王国」を設立、主催などを手がけ、1999年 には、 農林水産省関東農政局の諮問委員に就任されます。2002年7月31日58歳という若さで、肝臓ガンのため永眠されました。

出典:http://話題・.com

1960年の日米安保条約改定に反対するため、全学連が学生達にデモ動員

加藤登紀子さんのお兄さんが大学の “共産主義同盟” の高校生の指導員をしていたことから、影響を受け、高校生だった登紀子さんも大学生達の反体制運動に参加し始め、その後、夫となる藤本氏と出会うことになるんです。

1960年6月、“全学連”は、日米安保条約改定に反対するため、学生達にデモ動員し、加藤登紀子さんも16歳の女子高校生でデモに参加した様ですが、そのデモがだんだんと人が加わりとても緊迫した状況になったため、加藤登紀子さん女子高校生は早々に引き上げたそうです。加藤登紀子さんとのちの夫の藤本氏は一学年違いですがこの頃、同じ時代をみていたんですよね。

その時、当時東大の学生だった樺美智子さんが国会突入の際、警官隊と衝突し、その場で死亡したというニュースが流れ、さらに大規模なストライキと30万人以上をす “国会大包囲” を招いたことに初めて加藤登紀子さんが国家とは恐ろしいものだと感じたそうです。

1968年世界的に起こっていた学生運動

1968年は、 世界を巻き込む学生運動が伝染病のように広まり、日本の学生の間にも感染していった様でした。その学生運動の中心となっていた全学連の委員長だったのが加藤登紀子さんののちに夫となる、藤本氏だったのです。

加藤登紀子と夫@藤本敏夫との出会い 1968年

大学時代にはもう歌手として活動していた加藤登紀子さん。1968年東大を6年かかって卒業するときにデモが安田講堂前を埋め尽くすというような状況になり、振袖なんか着ていけないという加藤登紀子さんはジーンズで出席することにしたといいます。その時の週刊誌の写真が友人を通して、のちに夫となる藤本氏の目にすることになったといいます。

友人をかえして、加藤登紀子と会うことになった藤本氏。すでに歌手として有名だった彼女に学生がこんなに盛り上がっているんだから、来て歌ったらどうですかというような話をしたらしいです。が、加藤登紀子さんは「歌と政治をからめたくない」と言って断ったそうです。

京都から東京に出てきたのちの夫・藤本氏がよくいっていたことを加藤登紀子さんが語っています。「彼はずっと自分はマルキシズムより大乗仏教の立場に立ちたいんだと言っていた」「日本人としての歴史をバックヤードに置いて未来を作りたいと。学生運動の思想的な背景だったマルクスとかの近代、あるいは西洋主義っていうのは自分に合わない」と言っては悩んでいた時期があったと。

初めての出会いの日に朝までみんなで飲み明かしたそうで、こんな加藤登紀子さんご本人談があります。

加藤登紀子さん談「その日はみんなで朝まで飲み明かしました。始発電車で帰るとき、彼だけは振り向きもせず、サヨナラも言わずに去ってゆく。その後ろ姿が妙に心に残りました。後になって彼の振る舞いは、私が大好きだった高倉健さんをまねしていた、と分かるのですが(苦笑)。」夫・藤本さんってかわいらしいところもあったんですね。

画像@藤本敏夫氏と長崎県平戸1969年。1972年 - 4月21日、学生運動関連(公務執行妨害・凶器準備集合罪など)で実刑判決を受け、中野刑務所に収監。その後、5月6日 - 歌手・加藤登紀子と獄中結婚となります。

獄中結婚

加藤登紀子さん本人曰く、1972年月に下獄前に加藤さんのほうから「結婚しよう」っておっしゃったらしいです。でも、夫となる藤本氏は「三年も不在にする男がとてもそんなことをお願い出来ない」といい、加藤さんの方が振られたと。その後、藤本氏がいなくなった後に赤ちゃんがおなかの中にいることが分かって、意を決した加藤さんから再び、刑務所にいる藤本さんに決意のお手紙をおくってそれが「獄中結婚」となるわけです。

獄中生活

加藤登紀子さんの夫・藤本氏が刑務所にいたとき、園芸等々、農業に類する仕事をしていたとのこと。そのために農業というものに対する興味と関心が深まったといいます。「食べ物によって、人間の体も性格もかなり変化するなと改めて気づいたりもした。 」とおっしゃっていました。

ひとり寝の子守唄

加藤登紀子さんが獄中にいる夫を想い、作った歌がこの「ひとり寝の子守唄」です。「ひとりで寝るときはよ ひざっ小僧が寒かろう おなごをだくように あたためておやりよ」心にしみますね。。

♪一人で寝るときにはよ もみ殻枕を 想い出が濡らすだろう 人恋しさに...一人で寝るときにはよ 夜明けの青さが 教えてくれるだろう ひとりもんもいいもんだと♪加藤登紀子さんのこんな言葉を夫の藤本氏はどうおもっていたのでしょうね。

夫・藤本氏が彼を待つ加藤登紀子さんのもとに刑務所から帰ったときに入所前にお腹の中の赤ちゃんはすでに1歳半になっていました。月日が経つのは早いですね。夫との間には3人の娘がおり、そのうち次女のYaeさんは歌手活動中なんです。

加藤登紀子@夫・藤本敏夫さんの晩年まで

♪この両手に 花をかかえて あの日あなたの部屋をたずねた 窓を開けた日差しの中で あなたは笑って迎えた 手をつなぎ ほほよせて くりかえす愛のくらし♪こんな歌詞の中でも加藤登紀子さんと夫・藤本氏の愛のくらしを思わせてくれますね。

加藤登紀子さんと夫・藤本氏が鴨川自然王国で正月を迎えて寛いでいる時の写真だそうです。(2000年1月)亡くなる2年半弱前ですね。

加藤登紀子さんが愛した夫・藤本氏。お二人のその後の写真は笑顔でいることが多いようです。お幸せな晩年だったのでしょう。

藤本敏夫氏最後の春を加藤登紀子さんと共に。(鴨川自然王国にて 2002年5月)2002年に夫・藤本氏が肝臓ガンで死去(享年58)。若くしての病死だったんですね。

千葉県鴨川市に夫@藤本氏と開墾した田畑があります。「自然王国」と名付けられたその田畑に加藤登紀子さんは藤本氏を想い植えた「レモンの木」も今では大きくなっていることでしょう。

加藤登紀子さんと夫・藤本敏夫さんとの人生の物語

いかがでしたか?学生運動時代の日本を知っている人も知らない人も加藤登紀子さんの「獄中結婚」という言葉だけが目立ってしまいますが、そこにあった深い絆って素敵だなぁと思えるお二人のご夫婦のお話でした。

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