jonasan
2016/08/21
デヴィ・スカルノ(Dewi Sukarno、1940年(昭和15年)2月6日 - )
日本で生まれたインドネシア国籍のタレント。インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人。NPO法人アースエイドソサエティ総裁。株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役。本名・インドネシア名:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)、旧名・日本名:根本 七保子(ねもと なおこ)、通称はデヴィ夫人。
デヴィ夫人は、東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に父・兵七郎と母・政子の間に生まれました。父は麻布区霞町界隈の大工であり、弟が1人いました(八曾男)。家庭は裕福ではなく多額の借金をしていたそうです。太平洋戦争中は、母・弟の3人で福島県に疎開していたようです。
デヴィ夫人は、幼少期、とても貧困な生活を送られていたのですね。
今では大金持ちになりましたが、でも貧困だったころの生活や金銭感覚、その気持ちはずっと忘れられないでしょう。
スカルノ(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家です。
Sukarnoでフルネーム。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞しました。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送りましたが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として敬意をもって愛され続けています。現在、また再び紙幣(最高額面の10万ルピア)に彼の肖像が使われるようになりました。
デヴィ夫人の夫、スカルノ氏は、オランダが長年植民地として支配していたジャワ島東部の都市スラバヤ生まれです。父はジャワの下級貴族の出身で小学校教師、母はバリの貴族の出身でヒンドゥー教徒でした。名前の「スカルノ」は、ジャワのワヤン劇(インドの古代叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』に基づいている)に登場する武芸の達人「カルノ karno」(ガウォンゴ国王スルヨプトロ)に由来しています。
彼は実は植民地の出身です。でもそこから大統領になりあがったのだから、凄い人物であると分かりますね。
デヴィ夫人は、インドネシア大統領スカルノ氏が来日した時に見初められ、大統領夫人にまで昇りつめました。そう思うと、デヴィ夫人は名実ともに日本が誇る「シンデレラ」といっても良いかもしれません。
そう、これこそ本物の「シンデレラストーリー」です!
デヴィ夫人とスカルノ氏の出会いは帝国ホテルの貴賓室の広間でした。「東日貿易の鍵」として「昭和のフィクサー」と言われた国家的実力者、児玉誉士夫氏が彼女を送りこんだ、とされています。それは彼女に語学の心得があったこと、そしてその当時、貧しい家計を助けるために高級クラブで働いていた、という事も一役買ったのでしょう。
下の写真は若い頃のデヴィ夫人です。本当に美しく、女優の加賀まりこにも似ていますよね。
この美貌ならスカルノ元大統領に見初められるのもうなずけます。
スカルノ氏から彼女に送られたプロポーズの言葉は 「私のインスピレーションになってほしい。私の力の源泉になってほしい。私の人生の喜びになってほしい」でした。
この言葉が「生涯この方にお仕えしなさい」という神の啓示に思えた。と、そのように夫人はそれを今も大切な宝物として胸の中にしまっているそうです。
実はデヴィ夫人はインドネシアに渡ってからしばらくは愛人という立場でした。しかし語学や文化、教養などの勉強を熱心に取り組むするデヴィ夫人の姿が周りに認められ、正式に結婚しました。
デヴィ夫人には娘さんが一人いるようですが、いったいどんな娘さんなのでしょうか?やはりデヴィ夫人に似て美しい娘さんなのでしょうか?
上の写真は若かりし頃のデヴィ夫人が娘さんを抱っこして歩いている写真です。デヴィ夫人は本当に美しいですね。とても産後とは思えない美しさです。
この時点で既にデヴィ夫人は、日本人には無い雰囲気を醸し出しています。
当時は跡継ぎの問題などで男の子を生むように、とのことだったらしいのですが、デヴィ夫人は第3夫人だった為、女の子(娘)でも良かったそうです。そのデヴィ夫人の一人娘がこちらです!
こちらがデヴィ夫人の一人娘のカリさんです。
うーん・・・・、旦那さん似かもしれませんね。娘さんとデヴィ夫人の若い頃と比べたら、デヴィ夫人の方が美しいように感じます。
皇族らしい写真を見つけました。自宅に飾られてあるのでしょうか。デヴィ夫人と娘さんと二人並んだ肖像画ですね。お二人とも美しいです。
特にデヴィ夫人のデコルテが素晴らしく美しい!
娘さんは現在はご結婚されて、母国、インドネシアにお住まいということです。お母さまであるデヴィ夫人とは距離的に離れていますね。
噂によるとデヴィ夫人は、実は娘さんとは不仲なようです。
たった一人の娘なのに一体何があったでしょうか?
娘が母を嫌っている、という事があるのでしょうか?
デヴィ夫人と娘さんの確執について調べてみました。
娘さんとは一体何があったのでしょうか?
噂では「娘さんとデヴィ夫人は色々な誤解が合わさって、親子の関係にヒビが入ってしまった」と言われていますが…。
娘さんとは具体的にはどんな確執があったのでしょうか?!
それはインドネシアの歴史と関係があります。
デヴィ夫人の夫であるスカルノ大統領が失脚し、その次の大統領であるスハルト氏が大統領としてに政権を握った理由は、インドネシアの軍事クーデターの影響です。
その当時、デヴィ夫人は日本でカリナさんを出産し、その後は政治的な影響を考えてフランスに亡命しました。
でもフランスに亡命したといっても、その時点で元大統領夫人といっても、フランスで一人、娘を育てて生活していくにはやはり何かとお金がかかるものです。
お金が必要な理由、それは・・・。
もしもデヴィ夫人が一般的な生活をしていればそんなにお金も必要ではなかったのかもしれません。ですが、「娘は、上流階級でも通用するようにする」というデヴィ夫人の娘に対する教育方針の影響でたくさんのお金が必要だったのです。
つまり、娘には自分が幼い頃に味わった貧乏な体験と同じ経験をさせたくなかったんですね。
でも・・・、どれだけ母と娘が仲良くとも、やはりお金がないと、生活は大変なものです。
だからこそ娘のためを思い、自分は鬼になり、一人娘のためを思って自分に対して厳しくしていたんでしょうね。
そう、そんな生活にはお金が必要だという事で、 カリナさんが11歳の時にデヴィ夫人は単身インドネシアに戻ります。
スカルノ元大統領の遺産をわけてもらおうと思っての行動でしたが・・・、政府だってそんな簡単に遺産を彼女に渡しません!
大統領が変わったからって元大統領夫人であるデヴィ夫人に遺産の相続権利がないなんて、その当時の政府もなかなか卑怯ですね。
そんな状況の中、デヴィ夫人はインドネシアで財産をもらえるまで移り住むことを決めます。しかしやはり情勢は変わらず不安定なまま。そのような中で愛する我が子を育てるのはやはり不安だということで、 愛娘を一人、パリに残してきたデヴィ夫人。前述の通り、それは娘のカリナさんが11歳の時でした。
デヴィ夫人とカリナさんの仲が悪くなったのは、このことがキッカケだと言われています。
娘さんが11歳といえば、多感なお年頃といっても良い頃です。
もしかするとカリナさんは母親であるデヴィ夫人に見捨てられたと思ったのかもしれません。
全ては愛する娘の人生の為ためにしたことが、逆に裏目に出てしまったようです。
娘さんの思いは、一般の家庭でも良いから母親は常にそばにいて欲しかった、のだと思います。
現在はすでに定年もされてもいいくらいのお歳のデヴィ夫人。今では娘さんとも和解し、仲良く、孫も一緒に裕福な生活を送っているそうです。
デヴィ夫人は今やお笑い界になくてはならない存在!体を張った番組に出演する際には、そこら辺の芸人よりも本気で頑張っていらっしゃいますよね。見た目が美しい事はご存知の通り。
そして本当に優しくてまっすぐな人なのだと思います。
デヴィ夫人の今後の更なる活躍を期待しています!
以上、デヴィ夫人と娘さんについてご紹介致しました!
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