【信長協奏曲】小栗旬の織田信長が2016年1月に劇中で再び楽しめる!
poco3456
2016/08/05
2015/10/06 更新
織田信長は、誰もが知っている歴史上の偉人です。ところが研究も進み、学校の歴史の時間で学習した織田信長とは違っていたり、知られていなかったことがわかりました。それでは新しい織田信長の歴史をみていきましょう。そして最大の謎である本能寺の変を推理してみましょう。
オシャレに彩りを
歴史上の超有名人物、織田信長。
歴史の教科書で必ず登場する人物です。
時代:戦国時代(室町時代後期) - 安土桃山時代
生誕:天文3年5月12日(1534年6月23日)、天文3年5月28日など諸説あり。
死没:天正10年6月2日(1582年6月21日)
足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼし、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑えて戦国乱世の終焉に道筋をつけた。
これが一般的に理解されている日本の歴史に名を残している織田信長についてです。
天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で没し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。
歴史では、織田信長は天下統一を目前にしながら家臣の明智光秀の謀反で亡くなった...ということになっています。
元フィギアスケート選手の織田信成さんは、織田信長の子孫だそうです。
織田信長から数えて17代目の末裔(旗本高家の織田信高の系統)にあたると自称している。織田家の末裔と自称していることは海外でも紹介されている。デヴィッド・ウィルソンが2004-2005シーズンのフリープログラムに『座頭市』を選んだのも信長にちなんでのことだという。
2010年1月には愛知県清須市の「清須越四百年事業」のPR役として信長も居城とした清洲城の名誉城主に就任した(任期は1年間)。
一応「自称」織田信長の子孫ということです。
織田家の歴史を記した家系図もありますが...
ところで織田信成さんはスケート選手を引退してしまいましたが、歴史に名を残してゆけるでしょうか?
まず、最初に「兵農分離」です。
歴史の教科書では、織田信長の記述のところでは「兵農分離」と「楽市楽座」は外せないキーワードになっています。
一六世紀末に織豊政権によって開始され,一七世紀前半,徳川政権によって完成された武士と農民との階層分化・身分固定化。それまでの兵農雑居の形態から,検地・刀狩りを通じて,武士の都市集住と農民の武装および転職・移住の禁が確立した。
最近の歴史解釈では、織田信長が積極的に兵農分離を推し進めたとか、確立したということは無い。むしろ兵農分離は豊臣秀吉の刀狩によって、事実上確定した。という理解が主流です。
太閤検地によって、農民は年貢納入の義務を負い、刀狩によって、農民は農作業に専念することになりました。
戦いをする必要はなくなったのです。
ここは重要です。
すなわち、太閤検地と刀狩で兵農分離が進んだ、というところです。
参考までに、面白い説もあります。
織田信長が支配していた濃尾平野は、木曽川を始めとする大きな河川が何本も流れていて、氾濫ばかりするため稲作ができずに桑畑だったそうです。
そこで、桑畑の世話と養蚕が主な産業となり、それらは女房の仕事であり、夫は武士で稼ぐしかないような環境だったそうです。
つまり織田家では、兵農一致はしたくても出来ない。その気がなくても兵農分離になっていた。
ということです。
楽市・楽座(らくいち・らくざ)は、日本の安土桃山時代(戦国時代 後期)において、織田信長や、豊臣秀吉の豊臣政権や各地の戦国大名などにより城下町などの支配地の市場で行われた経済政策である。楽市令、「楽」とは規制が緩和されて自由な状態となった意味。
楽市楽座は、織田信長の先見性、進歩性を表現するために、織田信長の歴史の話では必ず登場する話です。
織田信長はどうして楽市楽座をしたかったのか?
これも支配していた濃尾平野の産業が養蚕だったことによります。
つまり繭や絹織物を販売しなければお米を買えなかったのです。
そのための売り先は京都であり、大阪でした。
そこに販売に行くのに、一々ピンハネされていては儲かりません。
楽市策座は織田信長にとって必須の政策だったのです。
信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃から「天下布武」という印章を用いている。訓読で「天下に武を布(し)く」であるとされ、現代では「武力を以て天下を取る」「武家の政権を以て天下を支配する」という意味に解釈されることが多い。だが一方で中国の史書からの引用で、七徳の武という為政者の徳を説いた意味だったとも解釈されている。
普通に歴史好きの人は、織田信長が天下統一を自ら成し遂げる意思を表現した印章だと考えています。
2010年代の歴史学では、戦国時代の「天下」とは京都を中心とした五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津の5ヵ国。現在の京都府南部、奈良県、大阪府、兵庫県南東部)のことを意味し、「天下布武」とは五畿内に足利将軍家の治世を確立させることであり、それは足利義昭を擁して上洛後、畿内を平定し、義昭が将軍に就任した永禄11年9月から10月の段階で達成された事、とされている。
ということで、歴史的には「天下布武」とは武力で天下統一を自ら成し遂げるという意味ではなく、近畿地方に足利将軍を復帰させるための目的の書類に押す印章だった訳でした。
なんとなく、残念。
織田信長の最後の居城は安土城でした。
この安土城も、実は謎だらけです。
現在石垣しか残っていませんが、その石垣だけ見ても当時としては空前絶後の大城郭だったことがわかります。
天守閣の歴史も、この安土城から始まりました。
安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。
実は安土城そのものはどんな城だってのか、はっきりわかっていません。
写真はもちろんありませんし、絵も残っていません。
信長が安土城を描かせたという屏風があるのですが、バチカンの宝物館のどこかに眠ったままです。
安土城の外見に関する現存の歴史的資料は、おそらくその屏風のみです。
天主のその具体的な姿については長年研究が続けられており、多数の研究者から復元案の発表が相次いでいる。基本的には同時代人の記述にかかる「信長公記」や「安土日記」に基づき、イエズス会宣教師の記述を加味するところまでは一致しているが、解釈をめぐっては意見が分かれており未だ決着を見ない。その姿は5重6階地下1階で最上階は金色、下階は朱色の八角堂となっており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされる。
5重6階地下1階という高層建築の城は、それまで日本に存在していませんでした。
また城内に大きな吹き抜けがあったというのも、歴史上も安土城前にもありませんし、安土城後もありません。
まさに独創的な城でした。
最後は歴史的にも謎の本能寺の変です。
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君織田信長を襲撃した事件である。
歴史上の大事件。織田信長が家臣の謀反で最期を遂げた「本能寺の変」ですが、大きな謎は2点。
謎①:明智光秀の動機が不明。歴史上確定的な資料が存在していない。
謎②:織田信長の死体が発見されていない。
です。
明智勢は信長の遺体をしばらく探したが見つからなかった。光秀も不審に思って捕虜に色々と尋ねてみたが、結局、行方は分からずじまいだった。(『祖父物語』によれば)光秀が信長は脱出したのではないかと不安になって焦燥しているところ、これを見かねた斎藤利三が(光秀を安心させるために)合掌して火の手の上がる建物奥に入っていくのを見ましたと言ったので、光秀はようやく重い腰を上げて二条御新造の攻撃に向かった。
謎①の動機ですが、織田信長の明智光秀に対するパワハラに対する恨みが過去主流の理解でした。
最近では、織田信長と長曾我部(四国)との間を取り持っていたにも関わらず、織田信長が長曾我部攻めを決断したことがあげられています。これは「歴史的資料(手紙)が発見されています。
また黒幕説(皇室、足利家、なかには秀吉や家康を挙げる人も)も根強いです。
謎②の死骸については、やはり見つからなかったのは理解できません。持ち去られたと考える方が自然かと思います。ただ、急を聞いて駆け付けた阿弥陀寺の僧侶が持ち出したという説は無理があります。そんなことができるなら、最初から織田信長は生きたまま脱出することが出来たはずです。
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