ヴェートーヴェンの運命、有名な曲のかくれた秘話を紐解く!

    クラシックファンならずとも知っている、ヴェートーヴェンのシンフォニーNO,5運命の最初のフレーズです。運命すなわち死神が戸を叩く音だとされるユニークな出だし、オーケストレーションに優れたヴェートーヴェンの運命の表現です。どんなエピソードがあるのでしょう?

    有名な交響曲運命を作曲したヴェートーヴェンてどんな人?

    ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章 「運命」

    ジャジャジャジャーン!でおなじみの、ヴェートーヴェン作曲の交響曲5番「うんめい」のあまりにも有名な出だしです。これを聞く人は大抵その音で死神を連想するのではないかと思います。人は生を授けられてこの世に暮していますが、その生には寿命があります。それがその人に定められた運命です。運命を作曲したヴェートーヴェンの心の中には一体に何が潜んでいたのでしょうか?それをご一緒に見てゆきましょう。

    ヴェートーヴェンの基本情報
    別名 楽聖
    出生 1770年12月16日頃
    出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン
    死没 1827年3月26日(満56歳没)
    オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国、ウィーン
    ジャンル 古典派音楽
    活動期間 1792 - 1827

    ヴェートーヴェンの身長は165cm前後で、当時の西洋人としてはあまり背は高くありませんが、筋肉質でがっしりとした体格をしていました。色は浅黒く、美男子とは言えない容貌でしたが、多彩な女性関係から見えてくるのは、それほど持てない容貌ではなかったと推察できます。表情が豊かで精気に満ちた眼光は見る人を圧倒したことでしょう。ですから、多くの人々がヴェートーヴェンを愛してやまなかったことでしょう。
    服装には無頓着で、若い頃はお洒落もしていたようですが、歳を追うごとに身の回りを構わなくなったようです。弟子のツェルニーが初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのようで、黒い髪の毛がもじゃもじゃと逆立っていた」という感想を持ったと伝わっています。
    作曲に夢中になるあまり、帽子をかぶらずに歩いていて、浮浪者と間違われ逮捕されそうになって、ウィーン市長が謝罪するという事件が起きました。ヴェートーヴェンが住んでいた部屋の中は散らかり放題でしたが、一方では、風呂と洗濯を好むという一面もあったと言われています。またその生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことでも有名です。引っ越し魔だったのです。

    ヴェートーヴェンの運命、ヴェートーヴェンの不滅の恋人は?

    ヴェートーヴェン不滅の恋人研究の第一人者の作品

    ヴェートーヴェンの死後、一通の遺書が見つかります。そこには、「僕の全財産を不滅の恋人に贈る。」と書かれていました。これが、今なお解決されていない、ヴェートーヴェンの不滅の恋人問題の始まりです。青木やよひさんは、この研究の第一人者で、著書もたくさんあります。

    ジュリエッタ・グィチャルディ(ガルレンベルグ伯爵夫人)
    『不滅の恋人』が1800年に知り合ったブルンスヴィック伯爵家の姉妹たちのいとこ、「ジュリエッタ・グィチャルディ」であるとしたのは、遺言執行人の1人アントン・シントラーが出版したベートーヴェンの伝記のなかで、シントラーがそう主張したからである。
     その根拠の第一は、ベートーヴェンの生前にベートーヴェンからこの女性の名前を聴いたこと。第二に、作品27-2『月光ソナタ』が彼女に献呈されていること。第三に秘密の引き出しから発見された女性の細密画の一枚がジュリエッタの息子によって彼女のものであると確認されたからという。
     もう一人の遺言執行人シュテファン・ブローニングは、ベートーヴェンの後を追うように数ヶ月後に他界してしまい、永いこと誰もシントラーの説を疑うものはいなかった。
     ジュリエッタの母親は故ブルンスヴィック伯爵の妹、つまりテレーゼたち叔母である。ベートーヴェンはジュリエッタと恋愛関係になり、1801年11月16日付けの親友ウェーゲラー宛ての手紙で彼女との恋は「結婚して幸福になれるだろうと考えたのは今度が初めてだ。」とそのことを吹聴して書いている。ベートーヴェンの自慢にもかかわらず、華やかで奔放なジュリエッタは、身分の違いからガルレンベルグ伯爵と結婚してしまう。
     『月光』ソナタは 1801年作曲、幻想的な美しい曲でジュリエッタに捧げられた。『ムーンライト・ソナタ』とも呼ばれ、ベートーヴェンが目の見えない少女のために月光の中で作ったとか、別れの曲として作ったとか、他にも様々な伝説を生んでいる。ジュリエッタに『月光』ソナタを捧げた7ヶ月後、1802年10月ベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」を書かれているが、耳の障害があったとしてもこの遺書がジュリエッタと直接の関係があったかどうかは定かではない。

    出典:http://www.takasaki9.com

    ヴェートーヴェンの女性関係はいろいろ取沙汰されていますが、遺書に書かれた女性は誰なのか、その一事だけは、現在なお解けないなぞとして残されています。童話の題材にもなった、目の見えない少女とのお話もその一つです。上記の引用のように、ジュリエッタに「月光」が捧げられたのか、それとも目の見えない少女との話が事実なのか判然としません。
    「運命」や「月光」という曲名は後の世の人がつけたもので、ヴェートーヴェン付けたわけではありません。

    映画敬愛なるヴェートーヴェン

    他人の秘密ごとを暴くのは想像した以上に楽しいことかもしれません。ヴェートーヴェンが「不滅の恋人」と呼んだのは誰なのか?そのミステリーだけが独り歩きして、ヴェートーヴェン情報諜報員説まで飛び出しています。純粋音楽を追い求めていたのですから、「不滅の恋人」は音楽の事だとしたいですね。

    テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック
    死後50年を経て、最初の異説は有名なセイヤーの伝記「ベートーヴェンの生涯」によってとなえられ、ブルンスヴィック伯爵令嬢テレーゼこそがそれであるとされた。その決め手として、才気煥発型の長女テレーゼは、ピアノの腕前も教養も相当高い女性で、1806年ベートーヴェンとの婚約しており(1810年破棄)、またT・Bの頭文字から判断して彼の遺品の中に残された彼女が描いて贈った肖像画が保存されていたことであるとして、不滅の恋人の有力候補とされていた。その肖像画は現在、ボンのベートーヴェン・ハウスに展示されている。でもそれは永いこと伝えられていたような秘密の引き出しから出たものではなく、ずっと大きいものである。

    出典:http://www.takasaki9.com

    ヴェートーヴェンの不滅の恋人は誰なのか?論争は果てしなく続いています。財産を残すほど親密な女性がいたのなら、何故結婚をしなかったのでしょうか?相手側に事情があったのかもしれませんね。たとえば人妻とか・・・許婚者がいるとか・・・秘したい恋だから、遺書に、いつどこで誰と、という重要なキーワードが書かれていなかったのかもしれません。

    ヴェートーヴェンが手紙を出したとされる女性の一人

    激しい内容の恋文を出した相手が特定できないほど、ヴェートーヴェンは恋多き男だったのですね。肖像画から見えてくる実像は、癇癪持ちでいつも難しい顔をしてペンを握っている姿しか想像できませんが、女性に対してはやり手だったのですね。

    ベットの中からすでに貴女への想いがつのる。我が不滅の恋人よ

    運命が我々の願いを叶えてくれるのを待ちながら、心は喜びにあふれたり、また悲しみに沈んだりしています。

    完全に貴女と一緒か、あるいはまったくそうでないか、いずれでしか私は生きられない。

    (貴女と一緒になり)、貴女の腕に身を投げ、貴女のもとで生まれたかのように思い、そして貴女に寄り添われて、魂が天界へ行けるようになることが出来るまで、私は彷徨い続けることを決心しました。

    そう、悲しいけれどそうしなければならないのです。

    貴女には、私の忠誠がお分かりでしょうから、他の女性が私の心に占めることなどは決してありません。決して、決して!!!!

    おお神よ、これほど愛しているのに、なぜ離れていなければならないのでしょう。

    それにしても、ウィーンでの今の生活は、なんと惨めでしょう。貴女の愛が、私を誰よりも幸福にすると同時に、誰よりも不幸にするのです・・・・・・

    私の命、私のすべて、ごきげんよう、おお、いつまでも私を愛して下さい。私の忠誠を、想い違えることがありませんように。




    永遠に貴女のもの
    永遠に私のもの
    永遠に私たちのもの」

    出典:http://blogs.yahoo.co.jp

    これは、ヴェートーヴェンが不滅の恋人に出した手紙の内容です。激しい愛情に満ちた手紙です。一体誰に当てた手紙だったのでしょうか?取りざたされる女性の他にもいたのでしょうか。いろいろな人が、様々な手法で解き明かそうとしていますが、未だに未解決のままです。

    ヴェートーヴェン 運命 運命に込めた作曲家の思いとは?運命に翻弄されるヴェートーヴェンの生涯

    1801年31歳のヴェートーヴェンとジュリエッタ嬢

    ヴェートーヴェンがその生涯に作曲したシンフォニーは9曲です。第9番を作曲していた時、ヴェートーヴェンは既に聴力を失っていました。初演されたとき、会場から湧き上がる拍手の音を聞くことが出来ませんでしたが、指揮者がヴェートーヴェンの背中をまわして聴衆の方を向かせたので、ヴェートーヴェンは、はじめて自分の曲が大盛況だったことに気付いたのでした。

    ベートーヴェンは1807年夏ごろ、自分の胸の奥深くで、「ダダダ・ダン、ダダダ・ダン」というフレーズが絶えずなっているのに気付きました。後年「運命が戸を叩く音」として有名になる交響曲第5番の主題となるフレーズだったのです。長い間そのフレーズはヴェートーヴェンの心の中でなり続けていました。しかし、この『交響曲第5番』の主題は、既に1798年に発表した『ピアノ・ソナタ作品10の1』の最終楽章に著していました。

    1798年、ベートーヴェンは28歳になっていました。それは最初に耳の不調を感じた年でもありました。ヴェートーヴェンの心でなっていた音は、自分自身の運命を切り開こうとする破壊の音だったのです。

    そして1808年に作曲した交響曲第6番『田園』について、『絵画より感情の表出』を目指した作品である、とベートーヴェン自身は語っていますが、『田園交響曲』という題名と、各楽章に与えられた説明の言葉、すなわち、第2楽章(『小川のほとりの情景』)における小鳥の鳴き声、第3楽章(『農民の楽しい集まり』)や第4楽章(『雷と嵐』)などであり、実際の情景を描写的に描いた作品として、表題音楽の優れた一作となっています。

    こうして1807年から1808年にかけての短い期間に、『交響曲第5番運命』、『交響曲第6番田園』、『合唱幻想曲』の3作品が作られました。特に『合唱幻想曲』は、最後の交響曲となる、れる『交響曲第9番』の習作ともいえる形を持っていました。

    ロマン・ロランはヴェートーヴェンの作品を評して、いわゆる「傑作の森」というタイトルで括っています。運命はその一角をなす作品です。運命は、ヴェートーヴェンの作品中でも形式・構成力共に非常に高い評価を得ていて、ベートーヴェンの作曲活動の頂点のひとつだと考えられています。ベートーヴェンの交響曲の中でも、運命は最も緻密に構成された作品であり、その主題展開の技法や「暗から明へ」という極端な展開はドラマチックで、その豊かな構成力は後世の作曲家の模範となりました。ピアノソナタ第23番「熱情」などに、運命の主題や構成が似通っており、関連作品だと考えられています。

    ベートーヴェン第9番交響曲(合唱付き) 

    年末になると日本のどこかで演奏されているヴェートーヴェンの第9です。最後の楽章には合唱がついているので、大勢の一般人が参加できることから、この曲はとても人気があります。筆者は20回ほどソプラノとして参加しました。

    ヴートーヴェンは最初、第5番を「田園」としていました。後に「運命」と名付けられた交響曲は第6番として産声を上げたのです。
    運命が初演されたのは、1808年12月22日、オーストリア・ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で「交響曲第6番」として演奏されました。現在の第6番「田園」は、同演奏会で第5番として初演されました。初演のプログラムは以下の通りでした。

    ♪交響曲第5番ヘ長調「田園」(注:現在の第6番)
    ♪アリア "Ah, perfido"(作品65)
    ♪ミサ曲ハ長調(作品86)より、グロリア
    ♪ピアノ協奏曲第4番
    (休憩)
    ♪交響曲第6番ハ短調(注:現在の第5番)
    ♪ミサ曲ハ長調より、サンクトゥスとベネディクトゥス
    ♪合唱幻想曲

    この演奏は、その資料によると「暖房もない劇場で、わずかな観客が寒さに耐えながら演奏を聴いていた」とされています。コンサートのプログラムは交響曲を2曲、そしてピアノ協奏曲、更に合唱幻想曲、などで、演奏時間は4時間を越える非常に長いものでありました。演奏家はもちろんのこと、聴衆も体力を消耗したと思われます。ですから、とても演奏会が成功したとは言えない状況でした。

    さらに、第1部で演奏される予定だったアリアは、出演するはずだった歌手が演奏会当日になって、急に出演できなくると言うハプニングがありました。代わりに出演した歌手は緊張のあまりアリアを歌うことが出来なくなって割愛されました。また第2部のフィナーレを飾る予定だった「合唱幻想曲」も演奏途中で演奏が混乱してしまい、始めからやり直すという不手際も重なり、コンサートは惨めな状態で大失敗に終わりました。
    ヴェートーヴェンの心は如何ばかりだったことでしょう。

    第5番交響曲 運命の出だし楽譜

    交響曲第5番「運命」の動機

    ベートーヴェンが「運命」を作曲する動機となったのは、弟子のカール・ツェルニーによると、キアオジという鳥のさえずりがヒントだといいます。この動機は、ヴェートーヴェン中期の傑作ピアノソナタ第18番、ピアノソナタ第23番「熱情」などにもみられます。しかし、、第一主題として最初から激しく現れるのは、「運命」が最初です。

    参考までに、アントン・シントラーの伝記の記述をご紹介します。。

    “ 作曲家はこの作品の深みを理解する手助けとなる言葉を与えてくれた。ある日、著者の前で第1楽章の楽譜の冒頭を指差して、「このようにして運命は扉を開くのだ」という言葉をもってこの作品の真髄を説明して見せた。

    苦悩する作曲家

    ヴェートーヴェン広場の銅像の写真です。眉間の皺を寄せて怖い顔をしています。
    学校の教科書にも載っている有名なヴェートーヴェンの写真は、後ろ手に腕を組んで苦悩するようなポーズのヴェートーヴェンが映っています。ヴェートーヴェンはは気難しい男だった、というのはこの写真が基になっているのかもしれません。

    ヴェートーヴェンはかなりの癇癪持ちで、始終腹を立てていたと伝わっています。生涯独身だったので、身の回りの世話をしてもらう女中を雇っていましたが、気難しヴェートーヴェンは、だれかれ構わず怒鳴るので、女中のなり手がなかったとも言われています。
    絵画にもなっているのは、ヴェートーヴェンの癇癪に腹を立てた女中が、小便桶を二階の窓から外に放り投げた場面です。聴覚に異常を来たしたヴェートーヴェンのいら立ちは収まることはなかったのでしょうね。

    ヴェートーヴェンの死因とベートーヴェンの運命 難聴という運命を乗り越えたその生涯

    苦悩するヴェートーヴェン

    ヴェートーヴェンは運命を作曲するまでだいぶ悩んだようです。主題は既に決まっていましたが、色々気がかりなことがあって、決定できずにいたようです。

    ヴェートーヴェンの死因については諸説ありますが、ヴェートーヴェンはいつも慢性的な腹痛や下痢に悩まされていました。ヴェートーヴェンの死後に行われた解剖では、肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られました。この損傷の原因については諸説あって決定的なものはありません。最近になって、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出さたとして注目を集めました。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属ですが、ベートーヴェンの身体にどのような経緯で鉛が入ったのかについても諸説あります。

    ヴェートーヴェンの身体が鉛で汚染されたのは、ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説があります。また、1826年の1月から肝機能障害によってたまった腹水を取る治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穴を開けて腹水を排水しました。毎回治療の度に腹部に穴を開けました。そしてそのたびに髪の毛の鉛濃度が高くなっていたことから、傷の消毒のために使用された鉛ではないかとする説もあります。

    ヴェートーヴェンが全聾だったことは夙に有名な話であります。40歳のころには完全に音が聞こえなくなったと言われています。
    その原因についてはいろいろ言われていますが、耳硬化症説伝音性の難聴であるとする説が有力視されています。これは、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が固まってしまって、音による振動を伝えなくなってしまうために、音が聞こえなくなってしまうという耳の難病です。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である証拠として、ベートーヴェンは人の声が全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したというエピソードがあげられています。このことは、耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部はその振動を僅かに感じることが出来るという性質にあると考えられています。

    ヴェートーヴェン 第5番交響曲 運命 、そのまとめ

    ベートーヴェンの死

    ヴェートーヴェンのライバルであり友人でもあったフンメルは、体調がすぐれないときいたヴェートーヴェンを妻と共に見舞いました。ヴェートーヴェン筆談で、「君は幸せだよ、こんなにきれいな奥さんがいて」と書きました。

    日本では「楽聖」と呼ばれるベートーヴェンの生涯は苦悩の連続でした。
    それ故、ベートーヴェンの生涯は、波乱に満ちたものであったといえます。才能があったので他の兄弟とは違う道を歩まねばならなかったことと、父から無理やり押し付けられた音楽への道、作曲家にとっては致命傷ともいえる、耳が聞こえなくなるという出来事、生涯独身を通した孤独、そして、「不滅の恋人」へのやるせない思い、更に甥のカールを巡る親族たちとの争い、当のカールとの軋轢といったいくつもの不運が積み重なった生涯の中でもベートーベンは絶望しませんでした。耳が聞こえなくなった後も素晴らしい作品を残し、最後に第9に到達しました。若いころボン大学で聴講したシラーの詩に感銘を受け、それが晩年のベートーヴェンの心を揺り動かして、第9が作曲されたのです。人類みな兄弟、というシラーの詩に曲を付けたベートーヴェンの心は、すでに未来の世の中を見通していたのかもしれません。
    二つの世界大戦の最中、第9が演奏されたという逸話がたくさん残っています。平和な世の中であって欲しいとのベートーヴェンの心は今も脈々と受け継がれ、連帯意識の高まりは更にグローバル化しています。

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